こんにちは、節税サラリーマンです。
ロシアワールドカップ盛り上がましたね~。
われらが日本代表チームは、ベスト16で残念ながら敗退となってしまいました、今まで日本代表が出場したワールドカップで、最も楽しませてもらった大会となりました。
過去、開催国枠で優遇された日韓大会、守備一辺倒で戦っていた南アフリカ大会でもベスト16まで残っています。
しかしながら、ロシア大会では自分たちが主体的に攻め、日本のサッカーとは「選手同士の高いレベルでの連携と、局所でのスピードアップによる崩し」というスタイルを示してくれたと思います。
ブラジル大会の時も「自分たちのサッカー」などと言われておりましたが、その内容を見せることなく(見せようとしたが、通用しなかった)敗退してしまいました。
ブラジル大会の日本代表チームが目指したのは、ある程度ボールをキープするポゼッションサッカーです。
とはいえ、ポゼッションサッカーで有名なバルセロナや、バルセロナより若干ポゼッション力が劣るスペイン代表と比較すると、日本代表のポゼッション力が大きく劣っていることは明白です。
また、ポゼッションは守備には有効ですが、攻撃面で考えた場合、どこかで攻撃スイッチを入れる必要があり、そのタイミングに選手間で認識ずれがあると、簡単にボールと奪われショートカウンターを食らいます。
過去、日本代表はショートカウンターから何度も得点を奪われていました。
ロシア大会のレギュラーセンターバックコンビは、ショートカウンターのスピード勝負にもある程度対応できており、日本代表の大きな欠点も解消されつつあります。
さて、前置きが長くなりましたが、ロシア大会で最もブレイクした日本人選手といえば、柴崎 岳選手と、乾 貴士選手の二人だと思います。
今回、記事を書こうと思った理由は長すぎるので後述しますが、乾 貴士選手は、我々おじさんサッカー経験者の夢を託すことができる存在となりました。
その理由とポイントに関して、今回記事にまとめさせていただきました。
日本サッカー黎明期
日本サッカーが発展した契機は、1960年のデットマール・クラマー氏の来日であったことは間違いがないでしょう。
1964年の東京オリンピックに向けて、日本サッカー協会が日本代表チームの強化を進めるにあたり、招請したコーチがデットマール・クラマー氏です。
指導を受けたメンバーは、東京オリンピックではベスト8敗退も、メキシコオリンピックで銅メダルを獲得します。
しかしながら、強化したチームはワンセットのみで、次世代の育成を考える余裕がありませんでした。
そのため、1965年に創設(デットマール・クラマー氏の提言あり)された日本サッカーリーグ、日本代表の試合では、当初はオリンピックで活躍した選手見たさに多くの観客が訪れたものの、スター選手の引退に伴い、徐々に観客動員を落としていきます。
日本サッカー低迷期
その後、日本代表、日本サッカーリーグは低迷期に入ります。
人によって意見はあるかと思いますが、その期間は1972年~1991年くらいでしょうか?
人気低迷のきっかけは、ミュンヘンオリンピックの予選敗退、最も低迷したのは、おそらく1980年代前半だと思います。
日本サッカーリーグ
日本サッカーリーグの観客動員は数百人がザラな中、高校サッカーには人気がありました。
当時のサッカー選手の王道は、高校サッカーで活躍して、大学へ推薦入学、体育の先生になって指導者になるというものです。
中山雅史選手(ゴン・ゴールで有名)は、学校の先生を目指していたことは有名ですね。
また、タレントの明石家さんまさんが日本サッカーリーグの人気拡大のため、「ザ・ミイラ」というチームを組織、ゴールデンタイムにエキシビションマッチを行いましたが、人気復活の起爆剤とはなりませんでした。
これは、タレント目的で試合を見た人が、実際に日本サッカーリーグの試合観戦に訪れることを期待(ミイラ取りがミイラになる)したものでした。
日本代表が弱かった時代、ごく少数の人がどのような気持ちで応援していたか?
興味がありましたら、下記の書籍をお薦めいたします。
低迷時代の日本代表を知るには最適ですので、リンクをご案内いたします。都並 敏史さんが小さいころ、日本代表を応援していた話も紹介されています。
「ゴール前で徐行するな!」は心に響くメッセージです。
テレビ放送
節税サラリーマンと同じ世代(40代後半)のサッカー経験者(ただしテレビ東京のため、首都圏に限る)、には、「三菱ダイヤモンドサッカー」はおなじみの番組です。
一度もワールドカップに出場したことが無い中、ブラジルや、西ドイツの代表チームに肩入れ、応援するといった捻じ曲がった青春時代をすごしています。ちなみに、サッカー番組といえば、当時これだけです。
このほか、天皇杯、高校サッカー選手権など、目玉になる試合は生中継されていました。
また、当時のテレビ放送の少なさを証明する例をご案内します。
1988年のソウルオリンピック大会予選、最終戦は国立競技場での中国戦です。
この試合に引き分け以上で、20年ぶりのオリンピック出場が決まります。
でも、テレビ中継は深夜、録画放送でした。
試合の結果は負けで、オリンピック出場はかないませんでした。結果から見れば、テレビ局の判断は懸命と言えるかも知れません。
1992年の変化
この年、ハンスオフト監督が着任し、まず、日本代表が大きく変化しました。
ダイナスティカップ(東アジア)での優勝、次いでアジアカップの優勝を飾ります。過去を知る節税サラリーマンにとっては信じられない変化です。
また、翌年にJリーグ開幕を控え、日本サッカーリーグの観客動員も数十倍レベルで増加します。
1993年になると、Jリーグが開幕、人気に火がつきます。
平行して、1994年アメリカワールドカップの予選も始まり、最終的には後一歩で大会出場を逃すのですが、これ以降の出来事は知っている方が多いので圧愛します。
龍時
今回、書きたかった内容は、こちらになります。この小説、今までに5回は読み返しています。
小説での表現
描かれている内容は、サッカー好きならニヤリしてしまうことが満載です。
特に、龍時02-03(2巻にあたる)で紹介されている、主人公「リュウジ」が韓国人選手に対して、韓国人の日本人への思考を評価するシーンがあるのですが、サッカーファンであれば「そうそう!」と感じること請け合いです。
この本の主人公「リュウジ」は、龍時02-03(2巻にあたる)以降、ベティスに所属するサッカー選手です。
ポジションは攻撃的なMF、ドリブルに強みがあって、右サイドのホアキン(スペイン代表)に代わり、試合の途中から投入されることが多い、スーパーサブのような存在です。
ちなみに左サイドのレギュラーはデニウソン、元ブラジル代表です。
ベティスに所属する前のチーム(龍時01-02(1巻にあたる)で描かれます)では、最終戦でバルセロナからゴールを奪い注目されます。
その後、龍時03-04(3巻にあたる)では、自信の役割をクラック(膠着した状況を打開する)であると表現しています。
乾 貴士選手との不思議な類似性
サイドアタッカー、ドリブルに強み、フィジカルが強くないといったプレースタイルがあります。
バルセロナからゴールを挙げ、注目されます。
そして、ベティスへの移籍、2018-2019シーズンの右サイドMFのレギュラーはおそらくホアキンです。ホアキンは、一旦ベティスから移籍するも、数年前にベティスに戻ってきました。
左サイドのレギュラーMFを乾 貴士選手がつかんだとしたら、おじさんサッカーファンは胸が熱くなります。
龍時のリンクを張ります。サッカー好きの方には、ぜひ一度読んでいただきたいです。
キャプテン翼
サッカー漫画といえば、キャプテン翼です。
言わずもがなですが、一応リンクを張っておきます。
最近、続々と新しい話が加わっていますが、節税サラリーマンが知っているのは、世界ユースで日本代表チームが優勝し、主要な選手がヨーロッパの有力なクラブチームへ移籍していくまでの話です。
日向小次郎はユベントスに、翼くんはバルセロナに所属し、リバウドとポジション争いをします。
ユベントスや、バルセロナで日本人が中心選手となること、それはもう遠くないことなのかもしれません。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
乾 貴士選手は、小説、漫画で描かれた「龍時」を現実のものとしてくれるかも知れない選手です。
乾 貴士選手がベティスで活躍、バルセロナの中心選手が日本人になること、それはもう遠くないことなのかもしれません。